今朝はこの秋一番の冷え込みでした。このページを読んで下さっている方々は日本中にたくさんいらっしゃいますが、それぞれに例年より早い冬の到来を感じられたのではないでようか。立冬まではまだ一週間以上ありますし、私の記憶では東北で10月中に山間部以外の都市部で雪を見た事がありません。また、雪の知らせがある一方、台風も接近しているので、特に奄美大島の方々は大変な状況だと思います。心よりご無事を祈っています。
今日の山響は、青森市から津軽半島を20キロほど北に移動した場所にある蓬田村(よもぎだむら)の小学校で公演でした。危惧された演奏環境も、新しい体育館は充分に暖房が行き届いていて、とても快適に演奏できました。その後、青森市〜みちのく道路の経路で三沢市に移動してきて、今日はホテルの部屋でゆっくりしています。以前はどんなホテルでも構いませんでしたが、年間多くのツアーを経験するうち、しだいにホテルのクオリティに気を遣うようになりました。部屋の雰囲気や清潔さはもちろんですが、とりわけベッドの質に拘っています。今、一番気に入っているのがアメリカ製の「シモンズ」というメーカーのベッドで、とにかく良く眠れます!まずこのベッドの有無がホテル選定の必須条件ですね・・・
三沢市といえばやはり米軍基地が連想されますが、私にとって印象に残る「三沢」は、今滞在しているホテルから歩いて数分の距離にある青森県立三沢高校です。1969年8月18日、第51回夏の甲子園大会決勝戦、松山商業と三沢高校は延長18回を戦い、0-0の引き分けで再試合となりました(古い話ですみません)三沢高校は日露ハーフのエース、太田幸司投手が大人気で、元祖甲子園アイドルでした。翌日の再試合は松山商業が勝利を収めましたが、当時小学生の野球小僧だった私は、食い入るようにテレビを見ていました。太田投手はその後ドラフト一位で当時の近鉄バッファローズに入団しますが、高校生の時点で肩の寿命を全うしてしまったのでしょう、成績は今一つでした。その後、巨人〜阪神と移籍し、1984年のシーズン終了とともに引退します。
当時三沢高校の活躍で一躍有名になった三沢市は、現在では米軍基地の街として日米安保の要となる場所の一つです。沖縄ほどではないのかも知れませんが、やはり街にはある種の緊張感が漂っています。明日の山響の公演が将来の三沢を支える子供たちへの希望の一つとなるよう、願わずにはいられません。