ヒトラーの依頼でポルシェがVWを設計したとき、まだポルシェは自分の自動車会社を立ち上げてはいなく、ダイムラーやアウトウニオン(後のアウディ)で設計などを担当していました。これは推測ですが、もしドイツが戦争をしていなかったら、ポルシェはポルシェ社を立ち上げ、そのモデルの一つとしてVWを生産したでしょう。そして、その上級モデルとして356や911をラインナップしたと考えるのが自然ではないでしょうか。結局VWは政府直属の会社として設立され、戦後もEUの発足までは半官半民の「公社」として存在し続け(現在は普通の企業です)私企業のポルシェとは別の会社になってゆきます。
戦後、生産されたVWは、1950年代から世界中で大成功し、日本にも1952年から輸入されます。また、特にアメリカで大ヒットし、大きなエンジンと重い車体でガソリンをがぶがぶ喰うアメ車に対してVWはとても知的に見え、ちょうど現在プリウスがもてはやされているように、VWに乗ることがエコでクリーンとのイメージが出来上がってゆきます。ポルシェはVWを設計するときに、一台売れるごとに自分にマージンが入るよう当時の政府と契約を交わしていましたが、これが戦後も有効であり続け、VWの大ヒットとともに戦後設立されたポルシェ社にも大きな利益をもたらし、911などの高性能スポーツカーを設計、開発するための十分な資金になってゆきます。1970年代になりVW Beetleが生産末期に入る頃、ポルシェ社では新たなモデルを設計し、VW社にその生産を提案しますが、これもマージンを新しいモデルでも確保しようと考えたのでしょう。(続く)
写真:左がポルシェ356、右がVW Beetleです。よく似ていますよね・・・
山形北高音楽科の定期演奏会が今年も山形テルサで行われ、ほぼ満員の聴衆が若々しく瑞々しい高校生の演奏を見守り、楽しみました。私は講師として同僚の山響メンバー数人と共にオーケストラの演奏に参加し、エルガーの「ニムロッド」やビゼーの「アルルの女」第2組曲を演奏しました。オーケストラは半数以上の生徒が副科(自分のメインの専攻ではないと言う意味です)として楽器を練習するため、演奏が上手く機能しない事も時々は起きますが、本番は集中力に富んだ良い演奏でした。打ち上げでは来年の選曲などについて盛り上がり(飲み過ぎ・・・です)ましたが、年々少なくなる入学者数が心配です。音楽科の将来のためにも何とか生徒数を定員いっぱい確保したいところです・・・
先日試乗したVW The Beetleについて、続きです。
ご存じの方も多いと思いますが、VWという会社は1938年に当時のナチスドイツが立ち上げた「国民車構想」(Volksは民衆、Wagenは車という意味のドイツ語です)がその始まりで、ヒトラー総統の命令により天才エンジニア、フェルディナント・ポルシェ博士が設計し、自らの研究所で完成させた車がVW type1、後のBeetleです。また、ポルシェ博士に車を設計させると共に、全ドイツに張り巡らせた「アウトバーン」と呼ばれた高速道路を整備する事で自動車の普及を促進させる政策をとります。政府はVWを買うために給料からの天引き制度を奨励し、労働者はこれにこぞって応募しますが、戦争が始まってしまったため、VW は軍需工場となり、天引きした購入資金は軍事費になってしまい、実際に車を受け取ることができたのはほんの数人とも言われています。戦争ではヒトラーの指示でポルシェ博士の設計したVWは、戦車や軍用車としてその高性能ぶりを発揮しドイツ軍を支えますが、敗戦後工場はイギリス軍に接収され、ポルシェ博士は戦犯として獄中に送られてしまいます。その後イギリス軍は接収したVWの工場を「利用価値なし」と判断し、ドイツに返還します。そして1945年、ヒトラーの国民車構想は新たにVWType 1として再開発され、たちまち世界中で成功してゆきます。また、1947年にはポルシェ博士も釈放されますが、獄中生活で健康を害し、息子のフェリー・ポルシェが陣頭指揮を執り開発したポルシェ356とVWの成功を見届け、1951年に75歳で亡くなります・・・(続く)
写真:2008年に仕事でドイツに行った際にVW本社のあるヴォルフスブルグに行き、アウトシュタットと呼ばれるVWのテーマパークを見ることができました。この写真は奥のグレーの車が1938年の試作車1号、赤いのが2号車、そして手前の黒いのが生産型です。
せっかく早起きしたのに、自分の番組を聴くのを完全に忘れていました。放送時間中に届いたメールにも「??」と考えたり、まるで頭が冴えませんでした…午前中に吹奏楽のクリニックをしたあとはオヤスミモードだったので、明日からは大丈夫かと…でも、明日収録の台本をまだ書いていません。明日昼がんばって本番までに間に合わせなくちゃ…今日は閉店です。
試乗してきました!詳細はあらためて!
今年ももう6月です・・・今日から衣替えですが、山響はスクールコンサートの場合、男性の服装は演奏会場がコンサートホールでも、体育館でも区別なしに白ワイシャツと黒スラックスのみで、昨年まで着用していた黒蝶ネクタイは着けないことにしました。タキシードの場合は黒蝶ネクタイですが、ジャケットなしでワイシャツと黒スラックスで黒蝶ネクタイだと、プロレスのレフェリーみたいで酷くカッコ悪いと言われていました・・・8月の盛夏に行われる定期では燕尾服を着用せず、黒シャツのみで(結構世界中で増えてきました)演奏してみようと計画中です。ステージ衣装は基本的にフォーマルなので、どこまで崩して良いのかは、聴衆の皆さんの感覚もリサーチしなければならないでしょうし、難しいところです。ただ、近年はあまりに暑い時期の公演もあり、楽に演奏できてリラックスして聴けるような環境を作り出すのも大切なんですよね・・・・
五月も終わってゆきます…例年より寒かったように感じるのは気のせいでしょうか…今は一番爽やかな季節ですが、これから六月になり梅雨がやってきます。仕事も忙しくなるし、体調に気をつけて夏を迎えたいですね。
会議が終わり、山形に帰るまで時間があるので宿泊地の金山を散策します。天気は良いもののわずかに湿気を含んだ空気は、梅雨の訪れがそう遠くない事を示しています。真夏の山形も凄く暑いですが、名古屋もものすごいことになりますよね。もうすぐ6月です。忙しさも増してゆくので体調を崩さないよう注意したいですよね。
名古屋で開催されるオーケストラ協議会の会議に出席するために久しぶりに名古屋に来ています。昨年夏の総会で議長職を退いてからは、会議の回数も減り、負担もかなり楽になりました。およそ二ヶ月ぶりにみんなと会い、話し合いお酒を呑み盛り上がり、山響での仕事の疲れもとれ、気分的にもリフレッシュできました。これで明日からしばらくは大丈夫ですね…
昨年7月から始まったFM山形「Sunday Prism」もあと一月で一周年を迎えます。最初の頃の録音を聴くと、さすがにぎこちなさが目立ちますが、最近は少しゆとりもでたような…収録は月に二回ほどのペースで、台本と選曲は私が担当していて、パーソナリティとプロデューサーを兼ねているようなものです。選曲についてはどちらかというとあまり知られていない楽曲を取り上げる事が多いですね。使用するCDは自分が所有しているものを中心に使い、新たに購入したものはほとんどありません。今日も収録がありましたが、第二シーズンはもっと楽しい番組になるよう、工夫していきたいと思います。お楽しみに!
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