今日も寒かったですね・・・18世紀から戻った最初の仕事は、東北電力の主催による「名曲の夕べ」です。以前にも紹介しましたが、神津善行、中村メイコさんファミリーを中心としたさまざまなジャンルの音楽を提供する楽しいコンサートです。今回は明日の鶴岡と翌17日が秋田県大仙市(旧大曲市)と2日連続、また来週24日はいわき市と、3回のコンサートが予定されています。今日はリハーサルが明日の本番会場である鶴岡市文化会館で行われました。ちょうど、桜祭りが開催中でしたが、肌寒いというよりは完全に2月ころの風が漂っていて、開花も遅れているようでした。天気予報では明日はさらに寒く、雪が降るとのこと・・・一体、いつまでこの寒さが続くのでしょうか・・・。
music
素晴らしかった第204回定期演奏会・・・ハイドンを通じて18世紀のヨーロッパ文化に触れる事のできた日々でした。長い間のオーケストラ奏者としての経験を経ても、古典のレパートリーの深層まで踏み込めたコンサートはそうたくさんあるものではなかったかも知れません。しかし、思い起こせば第100回定期演奏会で共演し、その後もたびたび共演させていただいたた山響草創期のコンサートマスターであり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスター(当時)であった安永 徹さんとのベートーヴェンなども、まるで出来立てのようにフレッシュな響きであったように思います。
芸術にはさまざまなジャンルがありますが、例えばシェイクスピアに代表される古典劇などは、創られた当時の英語で演じられます。日本の歌舞伎でも、もちろん現代の言葉使いを用いる事はありませんし、雅楽を洋楽の楽器で演奏する訳ではありません。オペラでは物語を現在に置き換えた演出がされることはまれにありますが、通常は作品が創られた当時のスタイルで再現されます。しかし、ほとんど音楽の世界だけが作曲者の意図とその当時の方法論を正確に再現せず、現代の楽器と環境(大きな会場と大編成のオーケストラ)で演奏されてしまうのではと、長い間私は感じていました。現代のオーケストラはバロック時代から今年作曲された新作まで、大変広範なレパートリーをもたなければなりませんし、時代ごとの奏法と使用する楽器をレパートリー毎に変更する事はほとんど不可能です。私たちは中部ヨーロッパの音楽を演奏する時にはロータリートランペットを使用しますが、それとてモーツァルトの時代にあった楽器ではなく、近・現代のヨーロッパのオーケストラが用いている事を考慮しているに過ぎません。
近年、山響でもナチュラルホルンやトランペットなどのオリジナル楽器を用い、モーツァルトを中心とした古典レパートリーの演奏を行っていますが、今回の鈴木秀美さんのアプローチは、楽器の奏法や楽譜に対する理解だけでなく、18世紀の音楽の語法について確固としたものを示し、それらはオーケストラにとって大変大きな影響となってこれからも残ってゆくと思います。音楽は「書かれた通り」にその本質が再現されなければならないし、時代楽器を用いない場合でも、作品に適した演奏スタイルをとる事がより必要なのだと思います。個人的にも鈴木さんとの多くの対話を通してナチュラルトランペットへのアプローチが根本から変わりましたし、古典のレパートリーに対しても新たな視点で勉強し直す意欲が高まりました。少し時間が必要かも知れませんが、より音楽的な演奏ができるよう、努力し続けてゆきたいと思っています。
Haydn
古楽演奏の世界的な第一人者の一人である鈴木秀美氏をお迎えしてのリハーサルは、通常の定期公演のリハーサルより一日多い4日間にわたるものでした。鈴木さんはその豊富な経験と深い知識を、気さくな雰囲気でオーケストラに伝えます。私たちは飯森監督とのモーツァルトのセッションでオリジナル楽器とピリオド奏法へのアプローチを取っていますが、今回の鈴木さんとのリハーサルは、使う楽器や奏法という方法論の向こう側にある「音楽」そのものを創り上げる実に有意義で楽しい時間でした。もちろん、オリジナル楽器を使用した事のないオーケストラに比べれば潜在能力ははるかにあるわけですから、鈴木さんのアプローチも自然に溶け込みます。そして、ハイドンという人がとても独創的で機知に富み、大変優れた作曲家だという事実をあらためて私たちも知る事となりました。私はハイドンの演奏ではグレン・グールドの演奏によるピアノソナタが大好きですが、今回のリハーサルの間、彼が再創造したハイドンの楽しい演奏を思い出す事が幾度となくありました。音楽へのアプローチは異なるものの、作品の本質を知り、音楽を「再創造する」事の重要性こそが私たち演奏家の務めなのでしょう。明日はきっと素晴らしい演奏会になると思います。早く舞台に上がりたくてワクワクしています!
84
読売ジャイアンツの名選手であり、今季からはコーチとしてますますの活躍が期待されていた木村拓也さんが亡くなられました。連日の報道で経緯については明らかになっていますが、37歳での旅立ちはあまりに突然で早すぎます・・・私は小さい頃から熱狂的なジャイアンツファンで、いわゆるV9時代のONに代表されるスター選手ももちろんですが、柴田、黒江や高田、少し前には国松や広岡などの脇役たちが大好きでした。彼らの一癖も二癖もあるしぶとい打撃や、バッターがヒットした瞬間にボールの方向を読む守備能力は大変高度で、長年にわたって優勝を続けることができたのも、主役と脇役がそれぞれの立場でバランスの良いチーム作りを心がけていたからだと思います。ジャイアンツは一時、FA選手やトレードで主力級をかき集めたものの、期待とは逆にチームのバランスを崩し、優勝から遠ざかってしまいます。そんな状況の中、原 辰徳が二度目の監督に就任し、ジャイアンツはようやく長期展望をもったチーム作りを始めます。木村拓也さんが広島から移籍してきたのはチームが低迷からはい上がろうとしていた2006年でした。広島時代から一瞬を大切にするプレイはジャイアンツでも発揮され、かつての名脇役たちと並ぶ大活躍と、その野球に対する姿勢、そして誰からも好かれる魅力あふれる人間性は若手を始めチーム全体に大きな影響を与え始めます。昨年もキャッチャーが不在となったゲーム途中で10年ぶりにマスクをかぶり、実に良い仕事をしたゲームがありました。現役として最後にチームが日本一になり、これから指導者として新しい「木村拓也」を育てる事を本人も楽しみにしていたことでしょう・・・早世は残念でなりませんが、木村さんが倒れられたのがジャイアンツに移籍してくる前の所属球団の本拠地で、現在も自宅がある広島であったことは偶然ではあるのかもしれませんが不思議な印象を感じます。
残された仲間達が木村さんの心を継いで行く事、それに何より深い悲しみの中にあるご家族に心よりお見舞い申し上げます。合掌。
The music
名古屋から戻り、今日は講師として勤務している山形北高音楽科の新年度当初の会議がありました。ここで私は23年にわたって指導しています。近年は不況の影響で音楽を勉強する生徒も減少していますが、真剣に音楽と向き合う生徒達はこの学校にはまだまだたくさんいます。人に音楽を教えるということ自体、大変シリアスなもので、教える方も日々研鑽が必要です。自分が経験した事しか伝える事ができないのですから、当然ですが。
夕方からは明日から始まる定期演奏会のリハーサルのために練習です。今回は古楽演奏の世界的権威である鈴木秀美氏が客演されるので、彼の音楽を長年にわたって勉強してきた私にとっても大変楽しみです。ナチュラルトランペットの音色と奏法を確認し、スコアを見直し音楽を読み直してリハーサルに備えます。そう、明日からは私たち山響が鈴木氏にレッスンを受ける日々になる事でしょう。「楽しい音楽の時間」が楽しみです。
Nagoya
ようやく春らしくなってきました。体調も良く、仕事もはかどります。昨日はヤマハ秋田店でトランペットセミナーがあり、朝9時から夕方6時までたくさんの受講生たちにレッスンをしました。また、前日夜は秋田市内の行きつけのお店で友人たちと全快祝いでした。およそ二ヶ月振りにソーセージなどの肉類を食べましたが、とても美味しかったです…
今日はオーケストラ協議会の会議のため、秋田から仙台経由で空路名古屋に来ています。早い時間の便しか予約が取れなかったので、中部国際空港で暇つぶし状態です。ここはとても大きな空港で、食事やショッピングもたくさん楽しむ事ができますし、Wi-Fiでインターネットも出来るので、このブログもiPhoneで書いています。
さて、闘病記も今回が最終回です。3月19日夕食から普通食になり、傷は動作によっては強い痛みがありますが、少しずつ治まってきました。以前にも書いたように病室はスーペリアルーム並みの快適さで、贅沢かとは思いましたが本当にリラックスできました(久しぶりの完全休養でしたから)翌21日はほぼ自由な歩行が可能になり、病院内を散歩したり売店に買い物に行ったりしていました。午後からは病室で入院後初めてトランペットを吹いてみました。予定では21日に退院し、24日から本番に復帰(しかも井上氏が休暇なので1st代理)する事にしていたので、どのような状態なのかを確認しておきたかったのです。アンブシュア(管楽器を演奏するための顔面や口腔などの機能やフォームの事を指す言葉です)は多少弱まっていましたが、呼吸機能は意外に大丈夫でした。今回は開腹ではなく腹部に四ヶ所の穴を開けたので、腹筋へのダメージは最小限で済んだ事が良かったのでしょう。それでも高音や大きな音を出すと痛みを感じましたが、復帰への不安を払拭する事ができ、安心でした。また、練習中に回診でドクターが現れ、演奏時の腹部の状態をチェックしていただく事もでき、何ら問題ないとの事で翌21日に予定どおり退院が決まりました。
21日、いよいよ退院です。朝食を済ませて荷作りをし、最後にバイタルチェック(体重は入院時が70キロ、退院時は68キロになっていました)と抜糸をし、ナースステーションに立ち寄りお礼の挨拶をして病院を後にします。外に出ると空気が一週間前より軽く、風の匂いからは春の色がほのかに漂います。健康を取り戻した安堵感と感謝の念に包まれながら軽快なドライブ(入・退院とも自分で車を運転して移動しました)で帰宅しました。
前回のダイエットからちょうど10年、昨年から体重が少しずつ増え、対策を考えていたところ偶然発見された胆石と入院、手術で健康管理の大切さを再び学ぶ事ができました。これから先、どこまで演奏家として現役生活を送れるかはわかりませんが、よいコンディションを保てるよう、努力を続けてゆきたいと感じています。
laparoscope cholecystectomy
鶴岡での本番が終わり、2月8日にクリニックに診察に行き、再び腹部エコー検査の結果はやはり急性胆嚢炎との診断・・・胆石が大きくなって胆嚢が完全に閉塞していて、もう少しで胆嚢が破裂しそうな状態でした。ドクターは、ドレナージと呼ばれる腹部に針を刺して腫れた胆嚢から胆汁液を吸い出す応急処置を考えたようですが、検討の結果投薬で炎症を抑えてから手術を行うことを選択し、県立中央病院外科のアポを取って下さいました。そして緊急オペを行わないかわりに入院までの間、厳しい食事制限を指示され、アルコールと一切の脂肪を厳禁する事になりました。とりあえず痛みが収まったので、10年前の減量を思い出し、超低カロリー食で生活することを決め、毎日1200kcalを超えることがないように注意し、特に夕食を500kcal以下にするよう工夫しました。私は一度決めると徹底して凝るタイプなので、食材の準備なども自分で行いました。2月15日には県立中央病院で診察と術前検査を行い、入院は3月16日から、オペは18日とスケジュールも決り、あとはできるだけ体のコンディションを良くすることでした・・・。
2月6日の発作から3月16日の入院まで1ヶ月以上の間が開きましたが、通常はこれほど時間をあけることはありません。急性の場合、発作〜入院、オペまでは数日のうちに行われることがほとんどで、病院でも珍しがられました。1ヶ月以上禁酒することも以前の減量以来で、最終的には7週間の間お酒と油を摂りませんでした。油は乳製品もとらなかったので、ほとんど大昔の日本食状態です。しかし、これが体に大変良い結果をもたらし、入院までのあいだに体重が6キロ減り、投薬の影響ではありますが、山響の健康診断ではこれまで経験したことのない好成績でした。
食事療法中には2月18日の横浜みなとみらいホールでの神奈川フィルとの合同公演や3月13、14日の山響定期などがありましたが、それぞれ減量の影響でプログラムの最後では貧血気味でかなり危ない演奏でしたが、何とか無事終えて、16日から入院になりました。あらかじめ予約していた個室は大変快適で、演奏旅行で宿泊するホテルの比ではありません。オペ後には特別室に入りましたが、こちらはスーペリアルーム並みの設備で、本当に心身ともに体を癒すことができました。
16、17日は主治医(執刀医、麻酔医)と看護師さんからのレクチャーなどがありましたが、基本的には自由で、持ち込んだMacでネットやメールをしたり、普段はできない読書などで過しました。18日は早朝から絶食になり、点滴が入り午後1時にオペ用のガウンに着替え、歩いてオペ室に向かいました。少し不安ながらも楽しみにしていたオペだったので、ワクワクしていました(絶対、変ですよね)いよいよ、laparoscope cholecystectomy 、腹腔鏡下胆嚢切除術の開始です。オペ室前ではスタッフが出迎えてくれて、それぞれ自己紹介をしてくれたのには驚きました。患者を少しでも安心させようとする心遣いがとても嬉しかったです。オペ室に入り、手術台に乗り、ドクターが「佐藤さん、頑張りましょうね、よろしくお願いします」と話しかけて下さり、私は「よろしくお願いします。自分でオペを見たかったです・・・」そして背中に「硬膜外麻酔」を入れる事から始まり、針が刺さり一瞬の痛みを感じた後に全身麻酔が入れられ、その後は記憶がありません・・・お酒に酔って記憶があいまいな感じによく似ていたかもしれません。
意識が戻ると酸素マスクや尿道カテーテル、心電図や血圧のモニター、点滴のラインも増え、気管内挿管を施されていたせいか、喉が少し苦しく、寒気も感じました。お腹には4ヶ所の穴が開けられ、モニター(カメラ)、お腹を膨らませて器具が通るようにするために炭酸ガスを送るための穴、そして器具で手術行うための2ヶ所の穴・・・そのうち1ヶ所には切除部の状態を(出血など)見るためのドレーン管が挿入されていました。
オペの所要時間は1時間半ほどで、すべて順調だったことを聞かされ、取り出した胆石を見ました。確かに、4センチ近くありました。そのままでは取り出せないので、腹内で砕かれて4つの石に分かれていました。
オペ後は要観察なのでナースステーション隣の部屋に置かれ、硬膜外麻酔のラインを使った強力な鎮痛剤でもうろうとしながらも、1時間置きに看護師さんやドクターが観察に来てくれて、とても安心したことを夢の中の出来事のように覚えています。痛みは少しでしたが、やはり体全体が疲労していたようで、あまり眠れませんでした・・・。今回は腹腔鏡を使用した肉体的負担の少ないオペでしたが、これが開腹術や心臓のオペだったとしたら、一体どうなるのでしょうか・・・。
オペから一夜明け、19日朝は時折腹部の痛みに襲われながらも体調は安定しており、午前中のうちに尿道カテーテルと心電図や血圧などのモニター、それに硬膜外のラインが外されました。左腕の2本の点滴ラインは午後まで維持されました。お昼近くになり個室に帰ることになり、看護師さんの介助を受けながらゆっくりと歩き出します。ベッドから起きるとたちまち貧血になり倒れそうになりながら何とか歩きます。この時点での体力レベルはゼロに近かったです・・・個室に帰ってベッドに横になってもとにかく悪寒がひどく、吐きたいけど吐くものもなく、どうしようもない状態でした。後は回復するだけ、と解っているのですが、これほど自由が利かないとさすがに気分が滅入ります・・・・(つづく)
Gallstone
「年度末」です・・・今日は少し暖かくなりましたが、風の冷たさからは新緑の薫りを感じることはできません・・・でも明日から4月です。それぞれに新たなスタートがあることでしょう。それを祝福する柔らかな光が待ち遠しいですね。
またまた続きです。昨年、健康診断の結果を主治医に評価していただくためにクリニックを訪れようとしていたときに、医療系の知人が「先生、目に黄疸が出てますよ。肝機能が落ちてるかも」と言われました。自分では気がつきませんでしたが、よく見ると白目が少しだけ黄色く見えます。クリニックでは
数値の悪化にドクターも・・・という反応で、昨日書いたように処方薬で対応することになり、念のため腹部エコー検査を実施したところ、胆嚢に結石を発見しました・・・石は一つで、それほど大きなものではなかったことから、経過を見ることになりました。黄疸のような症状は、肝臓でつくられた胆汁液の流れが悪かったことによるものでした。ドクターからは「痛みが出たらオペした方が良い」との事で、食生活に留意するよう指示されました。
それから今年2月まで胆石発作は起きず、体重の増減はあったものの概ね無事に経過していましたが、2月6日の事でした。リハーサルが終わって明日は恒例の鶴岡音楽祭。普通に飲んでベッドに入って爆睡・・・午前2時頃だったと思います。腹部に激痛を感じ(「感じ」なんてもんじゃないです。激烈な痛み!)目が覚め、すぐに「胆石発作!」と理解しました・・・当初、狼狽しましたが、冷静になり明日の本番の事や、救急車を呼ぶべきか考えました。この時点で救急搬送されれば、緊急オペになることも充分あり得ることから、とりあえず痛みをこらえようと必死に我慢しました・・・(T_T)結局、まったく眠れずにわずかに収まった痛みを抱えながら演奏会場まで運転していきました。万一に備え、もっていた鎮痛剤を飲み(食べた・・と言う方が良いかも)職場では全く平気な顔をして演奏し、発作のことは一切話さずに本番を何とか終えました。そのころは痛みも収まり、演奏も運転も平気でしたが、何か食べると発作が来るのでは・・という恐怖感から、食事は全くできませんでした・・・(つづく)
Diet
28日に行われた「オーケストラの日」のイベントは、たくさんの方にご来場いただき、とても楽しい一日になりました。恒例の「楽器体験コーナー」も盛況で、サポートしてくれた山形大学、山形北高音楽科の学生たちも子供たちとの触れ合いを楽しんでいるようでした。このイベントは丸一日がかりの仕事ですが、私は体調も安定し、無事に乗り切ることが出来ました。翌29日は退院後の初受診でしたが、経過も大変良く、山形県立中央病院から「卒業」することが出来ました。主治医の櫻井直樹先生(名医です!)をはじめ、スタッフの皆さんに感謝です!
さて、前回から少し間が空きましたが、ダイエットの続きです。結局、食事を抜いたりせず、カロリーとバランス、それとアルコールに注意して2000年11月から2001年3月までの4ヶ月で約15キロ減量し、69キロにすることに成功しました。その後は少しずつカロリーを増やしてゆきベストな体重を探っていき、体力とのバランスが最も良好な70〜72キロをキープすることにしました。食べ過ぎや飲みすぎの翌日は摂取量を減らすとか、工夫をして2008年頃まではこの状態を維持できました。
40代も終わりになる2008年頃は、少しずつ代謝が落ちてゆくようになり、酒量も増えたことから体重が増え始め、72〜75キロで増減を繰り返すようになり、コレステロール値も上がってきました。2009年3月の健康診断では、総コレステロール値が要治療のレベルまで上がり、初めて処方薬を服用するようになり、根本的な対策を講じる必要に迫られ、再び減量することを考え始めました・・・(続く)
Cholecystitis
昨年3月の胆石の診断からおよそ一年あまり、ここ数年多忙を極めていた私は、演奏、指導、ユニオン活動と全国(世界中、ですね)を飛び回っていました。でも長い間健康に気を遣わなかったわけではなく、今から10年前の2000年秋には、肥大化した体の引き締めにかかり、本格的なダイエットを開始しました。1984年、山響に入団した時点での体重は67キロ〜69キロ付近で、178センチの身長に対してはほぼ標準体重でした。30歳を過ぎた辺りから少しづつ太り始め、40歳になった1999年には最大84キロまで体重が増え、さすがに楽器を演奏するのがキツくなってきました。この頃の服のサイズは、スーツがB体(肥満体です・・・)シャツやカットソーは当然LL、デニムやチノパンのウエストは35インチまでになっていました。
体重の増加は、人それぞれに要因が異なり、白米に代表される炭水化物を多量に摂取する人、お菓子を多食して糖分過多となる人、そしてアルコールと脂肪(揚物など)を好む人など、太ってゆく原因がいろいろあります。痩せるためには自分の食生活をよく分析し、過剰な要因を排除することを行わなければなりません。私の場合は、やはりアルコールと脂肪の過剰摂取でした。アルコールは体内で糖分に変わり、その後脂肪となって内臓周りや肝臓に入り込んできます。当時はビールを大ジョッキで何倍も飲み、ウイスキーをストレートやロックでがんがん飲んでいましたし、締めにいわゆる「ラーメン終止」をしたりしていました。体に良い訳ないですよね・・・・・。
2000年秋、主治医のすすめでCTスキャンを受けてみたら、内蔵に脂肪が貯まっていて、深呼吸をしても肺が下部に下がらず、逆に脂肪が肺を上部に押し上げているような状況でした。これではまともなブレスコントロールは出来ません。また、肝臓や腎臓は老廃物の濾過という本来の解毒工場としての働きをする以前にアルコールと脂肪の分解に追われる毎日で、当然解毒能力が落ちたことで疲労感が積み重なるようになりました。CTの画像を観た時に「このままでは60歳まで(演奏が)持たないかもしれない」と強い不安感に襲われたことを思い出します。
2000年11月、長い独身生活に終止符を打ち、ついに結婚した同僚の結婚パーティーが、文翔館2階のカフェを借り切って行われました。この翌日から徹底的なダイエット(そんなカッコいいものではなく、まさに「減量」)を開始し、毎日1200キロカロリー以下に食事を制限すること、お酒と脂肪は当面禁止という2つを柱として、徹底した毎日を送りました。朝食はオートミールをスキムミルクで溶いたものと全粒紛パン、バターやマーガリンは禁止、オリーブオイルを塗って食べ、昼食は炭水化物(そば、パスタなど)を少なめに食べ、夕食を一日のうちで最も軽くし、炭水化物は摂らずにゆでた野菜と
スープ程度にし、毎日水分をたくさん摂ることに注意しました。そのような生活を一ヶ月ほど続けると、84キロの体重が76キロにたちまち落ちてゆきました・・・(つづく)