Mizar

感動的な第200回定期から一夜明けた23日は私の50回目の誕生日でした。今年は山響が200回、私は50歳で山響在団25周年と記念続きの年です。今から9年前、2000年5月には40歳になったのをきっかけに、文翔館で初のリサイタルを開催、多くの方々から好評をいただきました。その時、50歳になったらまたリサイタルをと考えましたが、ここ数年のあまりの多忙さに今年の開催を見送りました。そんな中、長年の良き同僚であるオーボエ奏者の斎藤真美さんから自身が主催する室内楽シリーズでの共演のオファーをいただきました。斎藤さんは最近「星座」に傾倒していて、「星の案内人」として研究と勉強を続けています。今回、山形市内のカフェ「嵯蔵」(さくら)で「ミザールコンサートサロン」と題して室内楽の連続演奏会を企画されました。「ミザール」とは、おおぐま座にある恒星で、北斗七星の柄の先端から2番目に位置する星の事です。斎藤さんらしい、美しいネーミングですね。そして、共演の演目として彼女が選択した曲は、コールアングレとトランペットのために書かれたアーロン・コープランドの「静かな都会」です。この曲はとても叙情的な美しい曲で、いつか演奏してみたい曲の一つでした。

2009年11月23日、私の50回目の誕生日はオーボエ、ピアノそしてトランペットが織りなす響きで飾られ、それはまさに「ミザール」のような光を放つ響きでした。またひとつ、望んでいた音楽を奏でられて幸福な時間でした。

The 200 Anniversary Ⅲ

1週間の素晴らしい時間が過ぎ、私たち山響のメンバーは、音楽に(山響に)携わり続けてきた事を心から喜ぶとともに、この演奏会の事を生涯の思い出として心の奥に持ち続けてゆく事でしょう。

4人の指揮者とオーケストラが創り上げた音楽は、どれも比類なき響きで、「音楽」の素晴らしさにあふれていましたし、それを見守り、全身で感じていただいた聴衆の皆様にも感謝したいと思います。飯森監督が言うように、この200回は通過点です。長い年月が過ぎオーケストラのメンバーや指揮者が替わっても山響は山形にありつづけるでしょうし、10年、20年先の山響がどのように発展してゆくか興味は尽きません。これからも「人から人」「心から心」へと音楽が拡がってゆくように毎日の演奏活動に取り組んでゆきたいと思います。

ありがとうございました。

The 200 Anniversary Ⅱ

終わりました・・・・2日間ともお客様で超満員でした。ありがとうございました。

とても素晴らしい、感動的な演奏会でした。このことはあらためてくわしく書きたいと思います。今日はこれからソロの本番です。唇が閉店状態です・・・(+_+)

The 200 anniversary Ⅰ

初日が終わりました。1席も空席の無い会場から伝わる熱い期待・・・そして4人のマエストロとオーケストラが奏でた響きは深い感動を呼びました。
黒岩氏のまさに入魂のワーグナー・・最終部の金管はオルガンのような響きを出し、私の後列のトロンボーン、チューバのサウンドは神々しさにあふれたもので、これこそワーグナーの響きでした。工藤氏の精緻で透明な音楽創りも、佐藤敏直氏の作品を再創造したかのようでした。そして村川氏のシベリウス・・・山響が奏でた最も美しい響きではなかったでしょうか。彼は演奏後のインタビューで「皆さんにありがとうと言いたかった」と聴衆に語りかけましたが、私たち楽員も「ありがとう」の気持ちを込めて演奏していました。最後は飯森氏がストラビンスキーを鮮やかに決め、素晴らしい演奏会を見事に締めくくりました。明日の2日目もさらに素晴らしい響きがテルサホールに響きわたる事でしょう!

The Maestro

昨日はテルサに会場を移してリハーサル3日目でした。村川氏の音楽はどこまでも美しく透明で、「カレリア」の第2楽章は一面真っ白な大地を北欧の太陽が照らし、空気がきらきらと光る光景が浮かぶようです。この美しい叙情は言葉では表す事ができません・・・・。「シベリウスチクルス」として毎冬の定期でシベリウスを取り上げていた頃よりもグレードアップしたオーケストラの響き・・・それは村川氏によって創り出され、黒岩氏が熱い魂を入れ込み、飯森氏によってさらなる躍動感と柔軟性を与えられ、発展してきた響きですが、今もなお山響の響きの芯として村川氏の音がしっかりと残っている事をあらためて感じます。きっと今夜は感動的な時を過す事ができるでしょう。

1993/12/8 Mahler 5

山形交響楽団第91回定期演奏会
1993年12月8日 山形市民会館
指揮:山下一史

バーバー:弦楽のためのアダージョ
マーラー:交響曲第5番

私にとってこれまでで最も印象に残る演奏会の一つとなるのが、この第91回定期演奏会です。オーケストラのトランペット奏者にとってマーラーの5番のソロを演奏する事は、他のどのような曲を演奏するよりも重要であると言っても過言ではありません。初めてこの曲を知ったのは高校生の頃で、ショルティとシカゴ交響楽団の演奏で、ソロトランペットは最高のオーケストラ奏者と言われた伝説の名手、アドルフ・ハーセスでした。それ以来この曲とハーセスの演奏に夢中になり、シカゴ響のレコードを集めてはすり減るまで聴き込みました。また、シカゴ、フィラデルフィア、クリーブランドの金管セクションによる「ガブリエリの饗宴」(Sony Classical MHK62353)は毎日のように聴き、レコードが本当にすり減って聴けなくなりました・・・シカゴ交響楽団を始めとするアメリカのメジャー・オーケストラの来日公演を聴いた時の驚きと感激は大変大きなものでした。ハーセス率いるシカゴ交響楽団の金管セクションの演奏は、私の演奏家としてのDNAに深く刻み込まれています。
 
「プロオケ奏者としてマーラーの5番のソロをアドルフ・ハーセスのように吹く事」は私の人生の大きな目標となり、いつかその日が来る事を夢見て音大の学生時代、練習に励んだ事を思い出します。そして1993年の12月5日、リハーサル初日に第1楽章冒頭のソロを演奏した時の事は忘れられません。まさに「夢が現実」になった瞬間でした。8日の本番当日は極限まで緊張しましたが、冒頭のソロをうまく決める事ができ、約80分間の演奏時間もあっという間の出来事のようでした・・・この頃の山響は時々大編成のプログラムを取り上げ、ブルックナーの第7番(94/12/7 第96回定期)やボレロ、海などオールフレンチプロ(93/3/12 第88回定期)なども演奏していました。それぞれに素晴らしい演奏でしたが、この時代ではやはりこのマーラー第5番が私にとって忘れられない演奏会です・・・。

Return

第200回定期演奏会のリハーサルが昨日から始まりました。黒岩氏の魂を入れ込むような熱い指揮、工藤氏の細部へのこだわりが生む透明感、飯森氏のキレのあるバトン捌きから引き出される生き生きとしたリズム・・・オーケストラもそれぞれの指揮者の楽器となり、全く異なるサウンドを出しています。

そして今日、7年の時を経て村川千秋氏が山響の指揮台に戻ってきました・・・チューニングが終わり、彼が現れるとオーケストラ全員が起立し、大きな拍手が沸き起こりました。村川氏の顔にも笑顔が浮かびます。以前よりも穏やかなその表情からは、長い間の深い苦難と喜びを経て一人の芸術家が到達した揺るぎない世界が伝わってきます。村川氏が最後に山響を指揮した2002年以降、新たに加わったいわゆる「戦後世代」のメンバーも増え、彼の指揮で初めて演奏する団員も多くなりました。現監督の飯森氏をはじめ、スタッフ全員が見守る中、リハーサルが始まり、オーケストラが奏でた響きはまぎれもなくあの「村川/山響」のサウンドでした・・・「カレリア組曲」の2楽章の弦楽器と木管楽器の歌や、3楽章マーチの躍動感は、彼の持つ音色そのもので、私が入団後初めて聴き、記憶に刻まれたサウンドがリニューアルして蘇ったようです。初めはお互いが若干緊張していましたが、リハーサルが進むにつれて指揮者とオーケストラとの一体感が増し、長い間の空白を取り戻したかのような時間でした・・・明日はテルサでのリハーサル最終日です。この響きが本番までにさらに美しくなるように、力を尽くしたいと思います。

1992/3/24

山形交響楽団第83回定期演奏会
1992年3月24日 山形市民会館
指揮:田中良和

ラヴェル:組曲「マ・メール・ロア」
フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」
ムソルグスキー=ラヴェル:組曲「展覧会の絵」

トランペットが私一人になり、オーディションを2回行っても該当者がなく、一年の月日があっという間に過ぎてゆきました。その間、すべての演奏会でエキストラを起用しなければならず、連絡等に忙殺された記憶があります。当時は携帯もメールもパソコンもなく、留守番電話だけが頼りといった感じで、ファックスはありましたがそれほど役に立つものではありませんでした。また、この時期はコンサートマスターも一人だけで、客演コンマスや弦楽器の客演首席奏者の確保にも苦労した思い出があります。個人的にも年間すべての公演で第1トランペットを演奏する事は初めてで、しかも自分のパートナーが決らない事(つまり、毎回エキストラ)へのフラストレーションも重なっていました。それでも、次第にエキストラは3〜4名のプレイヤーで固定されてゆき、仕事も少しずつ楽になっていきました。

そのような状況の中、1992年2月にトランペットとしては3回目のオーディションが行われ、併せて欠員になっていたホルン、ファゴット、打楽器などのパートのオーディションも行われました。このオーディションでようやく優れたトランペット奏者に出会う事ができ、その人こそ現在の首席トランペット奏者、井上直樹君でした。また、このオーディションではホルン岡本和也、パーカッション平下和生、ファゴット難波 彰(現在は退団)とその後の山響の中核をなす奏者が合格し、管・打セクションに新しい雰囲気が生まれる事が期待されました。4人は新年度からの採用に先立ち、3月24日の第83回定期演奏会に揃ってエキストラとして出演し、立派な演奏を披露しました。私は「展覧会の絵」でプレッシャーのかかるソリスト(TV収録もありました)でしたが、新たなメンバー達と共に希望と喜びをもって演奏した事を今も懐かしく思います。

1991/3/16

山形交響楽団第78回定期演奏会
1991年3月16日 19:00 山形県民会館
指揮:村川千秋

シューベルト:交響曲第9(7)番 「未完成」
マーラー:交響曲第1番「巨人」

マーラーの交響曲初演です。1974年11月22日の第5回定期演奏会では佐藤博夫氏をソリストに迎え「亡き子を偲ぶ歌」を演奏していますが、交響曲はこの演奏会が初めてした。(その後、1993年12月8日の第91回定期では第5番を演奏しています)この頃はほぼ毎年一度「12型」での演奏会があり、マーラーの1番は村川氏の強い要望で採り上げる事になりました。また、この演奏会は、私より2年ほど先に山響に入団し、私が入団してから約7シーズンに渡って隣同士で一緒に演奏してきたトランペット奏者の鬼頭伸明さんのファイナルコンサートとなりました。彼は私より2歳年上で、正確な奏法と強い集中力で山響の金管セクションを牽引していました。当時は現在のような首席制度はありませんでしたが、主に彼が第1席に着く事が多く、その輝かしい音色はオーケストラの響きをより美しくしていました。私が入団してからはお互い若かったこともあり、多くの時間を共に過しながら公私にわたって信頼と友情を保つ事ができたと思います。もちろん、時にはぶつかり合う事もありましたが、彼と演奏する事から得たものは現在も生きています。彼はこの演奏会を最後にプロの音楽家である事を辞め、オーディオ機器メーカーへ就職し敏腕営業マンとして全国を飛び回るようになります。トランペットは現在も続けていて、金管アンサンブルなどを楽しんでいるようで、時折サイトなどで元気な姿を拝見します。34歳と現役絶頂時の引退でしたが、共に演奏できたことは素晴らしい思い出として私の心に刻まれています。この翌月の第79回定期演奏会より、私が第1トランペットとして新たなチャレンジに向かう事になります・・・・。

1985/11/7 The Contra “C”

山形交響楽団第51回定期演奏会
1985年11月7日 19:00 山形県民会館
指揮:村川千秋

シューベルト:「ロザムンデ」より
ショスタコヴィッチ:交響曲第5番

日本における文化政策は、戦後の新憲法に基き、国民が広く文化、芸術を享受できるよう国が積極的に施策を進めることとされていますが、国立の洋楽施設を設ける事が審議されたのは昭和30年代初期に入ってからで、伝統芸能のための施設(国立劇場)のほか、近代芸術や洋楽のための国立の施設を設けることが国会で決定されました。その後、実際に新国立劇場が開場するまでには膨大な時間を要しましたが・・・。

日本の特徴として、国や自治体が直営の施設や団体を運営するのではなく、財団法人や社団法人(最近ではNPOなども)などのいわゆる外郭団体がオーケストラやホールを運営し、行政側はそれに対して「助成金」を交付することが長く行われてきました。プロ・オーケストラに対する最初の助成は地方オーケストラからで、1961年に群馬交響楽団が初めて文部省から「社会教育関係団体補助金」として助成を受けたことに始まります。当時、群響は1956年に文部省から全国で初めて「音楽モデル県」の指定を受け、61年に竣工した「群馬音楽センター」を拠点に、地方オーケストラの草分けとして苦しいながらも、関係者の懸命な努力で運営を続けていました。その後、1963年に札幌交響楽団、1965年に関西交響楽協会、1966年に東京都交響楽団が同じく助成を受け、この助成制度は1965年に「芸術関係団体補助金」として独立し、1968年の文化庁創設後はさらに金額が拡大され、1973年には地方オーケストラだけでなく、在京オーケストラに対しても助成が行われる事になりました。

1980年、文化庁はオーケストラの助成対象の条件を新たに定め、地方オーケストラは2管編成55名以上の専属楽員、定期演奏会を年間5回以上、在京オーケストラは3管編成77名以上、定期演奏会を年間9回以上それぞれ行う事とし、1984年まで猶予期間を設けた後、1985年からこれを実施しました。これにより当時30数名の楽団員で活動を続けていた山響は、基準を満たす事が不可能となり助成の申請を見送らざるを得ない事態に追い込まれ、全国紙に「山響 解散の危機か」などと報じられました。この事がきっかけとなり山響の苦しい運営実態が県民に理解され、県民有志による「山響に楽器を贈る会」が組織され、わずかな期間に330万円の寄付が集まり、東北初の5弦のコントラバスや打楽器などが購入できたのです。山響はその長い歴史において何度となく危機に見舞われましたが、この1985年の出来事は、県民全体で山響を支えようという機運が生まれた最初の機会であったと思います。

この「山響に楽器を贈る会」からの寄付金で購入した楽器たちのお披露目が第51回定期演奏会でした。シューベルトもショスタコヴィッチも感動的な名演でしたが、村川氏がアンコールに選んだ曲はバッハ作曲の小品で、彼がレオポルド・ストコフスキーの下で学び、日本へ帰国する時に「私は故郷でプロ・オーケストラを作りたい」と話すと、ストコフスキーはわざわざ村川氏のためにバッハの作品を編曲してくれ、「いつか君のオーケストラでこの曲を演奏しなさい。これは私から君へのプレゼントだ」と村川氏を励ましたそうです。そうして村川氏は帰国し、新進気鋭として各地のオーケストラへの客演を重ねながら山形でのプロオケ結成の機会を窺っていました・・・・それから10数年の時を経て、ようやく山響が発足し、小さいながらも全員で地道な演奏活動を続けて少しづつオーケストラは成長してゆきました。しかし、ストコフスキーから託された楽譜には当時の山響が所有する楽器では演奏不可能な音が記されていました。それは5弦のコントラバスの最低音「Contra C」だったのです。5弦のコントラバスは、通常の4弦の楽器の最低音であるE弦よりも3度低いC弦が装着されていて、通常のC音に加えて1オクターブ低いContra C弦を重ねる事でさらに低音に厚みを加える事ができます。村川氏は「ようやくこの曲を演奏できる日が来た。それも県民のみなさんによる寄付で購入する事ができた楽器で演奏できるなんてとても嬉しい・・・」とアンコールを演奏する前に聴衆に話し、さらに「低いCの音が出るとき、合図をしますからよく聴いていて下さい」と演奏を始めました。曲自体は短い曲でしたが、クライマックスの部分で全楽器が総奏する箇所、村川氏は客席に向かってコントラバスの方向を指さし、次の瞬間その「Contra C」は会場全体にしっかりと響き渡りました。それは、村川氏、ストコフスキー、そして山響を想うあらゆる人たちの気持ちが一つになった素晴らしい時でしたし、演奏していた私にとっても大変感動的な瞬間でした・・・

あれからもう25年近くの時が経ち、山響は5弦のコントラバスも数台所有できるようになりましたが、「Contra C」の響きを聴くと、あの時の感動を昨日の事のように今も思い出します・・・・。