北海道シリーズ最後の夜はやはり日本最大の歓楽街の一つ、ススキノです。(なんだかグルメレポートみたいですが・・・)私は1959年に生まれ、78年に東京に出るまで北海道で過しましたが、50、60年代は石炭の時代でした。札幌から名寄までの沿線を見ても、岩見沢、芦別、夕張、砂川など炭坑で振興してきた街が並びます。私の幼少時代、どこの家にもの家にも石炭を一冬分貯蔵しておく納屋があったものです。当時、石炭は安くて熱効率が良いために家庭や学校、駅などあらゆる場所で使われていました。学校でもいわゆる「だるまストーブ」があり、石炭当番と呼ばれるクラスの係が石炭庫から教室まで毎日石炭を運んでいました。50年代(昭和30年代、と言った方が分かりやすいかも知れませんね)の札幌を始めとする北海道の都市は、各家庭や会社から出る石炭ストーブの煤煙で町中が煤け、社会問題となりつつあり、東京など大都市の公害と並んで対策が急がれていました。そんな中、1964年のIOC総会で、1972年2月に開催される冬期オリンピックの開催地が札幌に決り、北海道と国を挙げての札幌の再開発が始まりました。そして、1965年の貿易自由化以降、原油もそれまでとは比較にならないぐらい大量に輸入されるようになりましたし、それに伴うさまざまな外国資本も流入する事となり、戦後の日本の企業は初めて「国際化」の荒波にさらされ、1964年の東京オリンピックを成功させた日本が、さらなる高度経済成長を目指してゆく事になったのです。
札幌(北海道)の近代化は、中央資本の進出と石炭に変わる石油エネルギーの浸透が大変重要な役割を果たし、リスクの多い石炭産業は少しずつ衰退してゆきました。私の家に初めて灯油ストーブが表れた日の事ははっきり覚えています。私は「こんな小さいストーブで部屋が暖かくなるのかな?」と心配しました。また、ストーブなのに電源コードがついていて、「火をつけるのに電気を使うんだ・・・」と思いました。点火のスイッチを入れると明るい火が灯り、部屋が暖かくなり始めたとき、「新しい時代が来た・・・」と子供ながらに思いました・・・。そして、ほとんどの家庭で石炭ストーブが姿を消した1972年2月3日、札幌では日本初(今も変わらずに使われています)のゴムタイヤ式地下鉄、千歳空港の国際化、札樽自動車道の開通、そして成長著しい札幌交響楽団など、大きく様変わりした人口100万人の札幌が、オリンピックの開会式を誇らしげに開催していました。あれから37年、札幌は開拓者と現代人との気概がコラボレートした素晴らしい都市として、内外から観光客が訪れ、光輝いています。今夜一人で散策したススキノも、バブル時代ほどではないにしろ、変わらず躍動感にあふれています。しかし、夕張に代表される炭坑を主たる事業としてきた街は、今では見る影もありません。繁栄と引き換えに失ってしまったものもまた大きいのです。これから次の世代に何を残すかは、今を生きる私たちの大きな責任だと思います。明るく輝く夜のススキノの風から時折感じるいにしえの記憶に、日々冷たさを増す風に絡むように漂う石炭のススの匂いを思い出すのは、私だけではないでしょう。