山形交響楽団第78回定期演奏会
1991年3月16日 19:00 山形県民会館
指揮:村川千秋
シューベルト:交響曲第9(7)番 「未完成」
マーラー:交響曲第1番「巨人」
マーラーの交響曲初演です。1974年11月22日の第5回定期演奏会では佐藤博夫氏をソリストに迎え「亡き子を偲ぶ歌」を演奏していますが、交響曲はこの演奏会が初めてした。(その後、1993年12月8日の第91回定期では第5番を演奏しています)この頃はほぼ毎年一度「12型」での演奏会があり、マーラーの1番は村川氏の強い要望で採り上げる事になりました。また、この演奏会は、私より2年ほど先に山響に入団し、私が入団してから約7シーズンに渡って隣同士で一緒に演奏してきたトランペット奏者の鬼頭伸明さんのファイナルコンサートとなりました。彼は私より2歳年上で、正確な奏法と強い集中力で山響の金管セクションを牽引していました。当時は現在のような首席制度はありませんでしたが、主に彼が第1席に着く事が多く、その輝かしい音色はオーケストラの響きをより美しくしていました。私が入団してからはお互い若かったこともあり、多くの時間を共に過しながら公私にわたって信頼と友情を保つ事ができたと思います。もちろん、時にはぶつかり合う事もありましたが、彼と演奏する事から得たものは現在も生きています。彼はこの演奏会を最後にプロの音楽家である事を辞め、オーディオ機器メーカーへ就職し敏腕営業マンとして全国を飛び回るようになります。トランペットは現在も続けていて、金管アンサンブルなどを楽しんでいるようで、時折サイトなどで元気な姿を拝見します。34歳と現役絶頂時の引退でしたが、共に演奏できたことは素晴らしい思い出として私の心に刻まれています。この翌月の第79回定期演奏会より、私が第1トランペットとして新たなチャレンジに向かう事になります・・・・。
山形交響楽団第51回定期演奏会
1985年11月7日 19:00 山形県民会館
指揮:村川千秋
シューベルト:「ロザムンデ」より
ショスタコヴィッチ:交響曲第5番
日本における文化政策は、戦後の新憲法に基き、国民が広く文化、芸術を享受できるよう国が積極的に施策を進めることとされていますが、国立の洋楽施設を設ける事が審議されたのは昭和30年代初期に入ってからで、伝統芸能のための施設(国立劇場)のほか、近代芸術や洋楽のための国立の施設を設けることが国会で決定されました。その後、実際に新国立劇場が開場するまでには膨大な時間を要しましたが・・・。
日本の特徴として、国や自治体が直営の施設や団体を運営するのではなく、財団法人や社団法人(最近ではNPOなども)などのいわゆる外郭団体がオーケストラやホールを運営し、行政側はそれに対して「助成金」を交付することが長く行われてきました。プロ・オーケストラに対する最初の助成は地方オーケストラからで、1961年に群馬交響楽団が初めて文部省から「社会教育関係団体補助金」として助成を受けたことに始まります。当時、群響は1956年に文部省から全国で初めて「音楽モデル県」の指定を受け、61年に竣工した「群馬音楽センター」を拠点に、地方オーケストラの草分けとして苦しいながらも、関係者の懸命な努力で運営を続けていました。その後、1963年に札幌交響楽団、1965年に関西交響楽協会、1966年に東京都交響楽団が同じく助成を受け、この助成制度は1965年に「芸術関係団体補助金」として独立し、1968年の文化庁創設後はさらに金額が拡大され、1973年には地方オーケストラだけでなく、在京オーケストラに対しても助成が行われる事になりました。
1980年、文化庁はオーケストラの助成対象の条件を新たに定め、地方オーケストラは2管編成55名以上の専属楽員、定期演奏会を年間5回以上、在京オーケストラは3管編成77名以上、定期演奏会を年間9回以上それぞれ行う事とし、1984年まで猶予期間を設けた後、1985年からこれを実施しました。これにより当時30数名の楽団員で活動を続けていた山響は、基準を満たす事が不可能となり助成の申請を見送らざるを得ない事態に追い込まれ、全国紙に「山響 解散の危機か」などと報じられました。この事がきっかけとなり山響の苦しい運営実態が県民に理解され、県民有志による「山響に楽器を贈る会」が組織され、わずかな期間に330万円の寄付が集まり、東北初の5弦のコントラバスや打楽器などが購入できたのです。山響はその長い歴史において何度となく危機に見舞われましたが、この1985年の出来事は、県民全体で山響を支えようという機運が生まれた最初の機会であったと思います。
この「山響に楽器を贈る会」からの寄付金で購入した楽器たちのお披露目が第51回定期演奏会でした。シューベルトもショスタコヴィッチも感動的な名演でしたが、村川氏がアンコールに選んだ曲はバッハ作曲の小品で、彼がレオポルド・ストコフスキーの下で学び、日本へ帰国する時に「私は故郷でプロ・オーケストラを作りたい」と話すと、ストコフスキーはわざわざ村川氏のためにバッハの作品を編曲してくれ、「いつか君のオーケストラでこの曲を演奏しなさい。これは私から君へのプレゼントだ」と村川氏を励ましたそうです。そうして村川氏は帰国し、新進気鋭として各地のオーケストラへの客演を重ねながら山形でのプロオケ結成の機会を窺っていました・・・・それから10数年の時を経て、ようやく山響が発足し、小さいながらも全員で地道な演奏活動を続けて少しづつオーケストラは成長してゆきました。しかし、ストコフスキーから託された楽譜には当時の山響が所有する楽器では演奏不可能な音が記されていました。それは5弦のコントラバスの最低音「Contra C」だったのです。5弦のコントラバスは、通常の4弦の楽器の最低音であるE弦よりも3度低いC弦が装着されていて、通常のC音に加えて1オクターブ低いContra C弦を重ねる事でさらに低音に厚みを加える事ができます。村川氏は「ようやくこの曲を演奏できる日が来た。それも県民のみなさんによる寄付で購入する事ができた楽器で演奏できるなんてとても嬉しい・・・」とアンコールを演奏する前に聴衆に話し、さらに「低いCの音が出るとき、合図をしますからよく聴いていて下さい」と演奏を始めました。曲自体は短い曲でしたが、クライマックスの部分で全楽器が総奏する箇所、村川氏は客席に向かってコントラバスの方向を指さし、次の瞬間その「Contra C」は会場全体にしっかりと響き渡りました。それは、村川氏、ストコフスキー、そして山響を想うあらゆる人たちの気持ちが一つになった素晴らしい時でしたし、演奏していた私にとっても大変感動的な瞬間でした・・・
あれからもう25年近くの時が経ち、山響は5弦のコントラバスも数台所有できるようになりましたが、「Contra C」の響きを聴くと、あの時の感動を昨日の事のように今も思い出します・・・・。
山形交響楽団 第50回定期演奏会
1985年8月1日(木)19:00 山形市民会館
指揮:渡部勝彦 ピアノ:武田真理
シベリウス:悲しきワルツ
リスト:ピアノ協奏曲第1番
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」(ハース版)
創立から13年、50回目の定期演奏会です。この日演奏された「ロマンティック」が山響のブルックナー初演になりました。当時は定期演奏会前の4日間をリハーサルに充てていて、初めの2日間は団員のみで、3日目からはエキストラが合流し行っていました。また、終演後は夜行列車(山形新幹線は1992年から開業)でエキストラに帰京していただいたり、今とは隔世の感があります。山響はこの頃から組織も演奏も少しずつ、ほんとうに少しずつですが成長の度合いを高めてゆきました。
この演奏会は7月31日に長井市、8月1日に山形市、翌2日に酒田市と3日連続の公演で、猛暑と相まってとにかく消耗した事を覚えています。また、「ロマンティック」を10型(今日の山響と同じ編成)で演奏したのは当時の山響が最初ではなかったかと思います。金管はメンバーが数人退団し、新たなメンバーが決っていなかったためにエキストラを多く起用しましたが、良いアンサンブルだったように記憶しています。山形市民会館は県民会館ほどではないにしろ、デッドなホールで、ボリュームいっぱいの金管を効果的に使うため、初めてひな壇無しで全員フロアで演奏しました。そして私にとって忘れられないのは、大学時代の恩師である福井 功先生(当時、NHK交響楽団で現役のピークを迎えていました)が第3トランペットとして出演された事です。先生には若手の奏者をリクルートするつもりでコンタクトしたのですが、「私が行きます」と言われ、とても驚き、感激した事がつい先日のようです。先生は、N響以外のオーケストラに出演するのは、1963年に読売日本交響楽団が設立され、手伝いに行った時以来だそうで、山響のようなローカルオケへの出演を快く引き受けていただき、また、大学時代のレッスンを具現化したかのような説得力ある演奏を示していただいた事は忘れられません。リストの協奏曲では私が1st、先生が2ndと、大変貴重な体験もでき、充実した1週間でした・・・・。
2週間ほど前から頭痛が治まらず、頭部全体に圧迫感も出てきた事から、脳疾患の可能性を確認するために頭部MRI検査を受けました。
MRIというのはMagnetic Resonanse Imaginng(磁気共鳴画像装置)の略で、磁気を用いて体の内部をスキャンする高性能な機械です。以前から使用されているCTよりも精緻な画像が撮影でき、病変部の確認レベルも高度に行う事ができます。
今回は山響の熱心なファンであり、ご自身もフルートを演奏されている酒田在住の脳神経外科医、黒木 亮先生が開業している「くろき脳神経クリニック」で受診しましたが、広く清潔で落ち着いた院内は、そこに身を置くだけで頭痛が治りそうな雰囲気がありました。また、待合室にはiMacとMac miniが置かれ、自由に使えるようになっていて、待ち時間を楽しく過す事ができます。それに本格的なコンサートが開催できるスペースもあり、グランドピアノとチェンバロ(!)が設置してありました・・・驚きです。黒木先生はこのスペースでさまざまなコンサートを開催していて、患者や地域の皆様にとても親しまれているようです。
受診の結果は脳には異常がなく、血流も正常で一安心でした。念のため頚動脈をCTスキャンし、血管内部の状態を確認しましたが、こちらも合格。
ただ、食事の工夫や運動などで代謝を良くしたり、体脂肪のレベルを改善することはこれからも必要と感じました。結局、頭痛は極度の肩凝りが原因だったようです。最近、ボディケアしてなかったし・・・・・まあ、深刻な病気の可能性はめでたく否定されましたが、健康についていろいろ考えさせられた数日でした。中高年を迎えたら(35歳からですよ!)脳の検査を受けた方が良いですよ!検査はくろき脳神経クリニックをおすすめします!
山形交響楽団第47回定期演奏会
1985年1月29日(火) 19:00 山形市民会館
指揮:村川千秋 ピアノ:弘中 孝
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2版
ブラームス:交響曲第4番
私にとってこの演奏会は、村川氏との最初の定期演奏会で、入団以降は音楽教室などではその指揮で演奏していましたが、定期は初めてで、村川氏も1983年4月27日の定期演奏会以降、一年以上ドイツに留学してしまったために定期会員の皆様にとっても久しぶりの村川/山響の組み合わせでした。
村川氏の最初の印象は、とにかく指揮が独特で、どのタイミングで音を出し始めれば良いのか分からずに一人飛び出したりして顰蹙を買ったことも時々あったように思います(山田一雄先生を思い出しました)また、渡部氏が指揮する時と比べてオーケストラが出すサウンドが全く違い、厚くうねるような弦セクションと色彩感あふれる木管セクションの響きは今も耳に残っています。特にラフマニノフの重厚さとブラームスの響きの透明感は、当時の村川氏が得意とした手技だったと言えるでしょう。
村川氏とはこれ以降、2001年に常任指揮者を退任されるまでたくさんの演奏会を行い、特に晩年のシベリウスチクルスでは彼の芸の集大成を見せてくれました。また、私がユニオンの代表を長く務めていることから、数えきれないぐらいの対話(世間話、会談、交渉、口論、喧嘩などすべて)を重ね、共に山響の発展をめざして力を尽くしてきた事は素晴らしい思い出です。来週、久しぶりに彼が戻ってくるのは大変意義深く、最後に客演されたのが2002年1月の山響創立30周年記念特別演奏会でしたが、それ以降現在までメンバーも大きく変わり、今の山響を彼が指揮したらどんな響きがするのか興味は尽きません。本当に楽しみですね!
山形交響楽団第44回定期演奏会
1984年5月10日(木)19:00 山形市民会館
指揮:渡部勝彦 チェロ:矢島三雄
ブリテン:シンプル・シンフォニー
本間正雄:チェロ協奏曲(初演)
ストラビンスキー:ハ調の交響曲
今から25年前、私が山響に入団して最初の定期演奏会です。当時は年間5回の定期演奏会を山形市民会館を主に開催していて、指揮者は1972年の創立から音楽監督兼常任指揮者を努めていた村川千秋氏から、1984年4月より渡部勝彦氏に交代し、村川氏は正指揮者となり山響は新たな時代に突入しました。渡部氏は会津若松の出身で、東京音楽大学で村川氏に指揮を学んでいます。その後村川氏と同じくインディアナ大学で研鑽を積み、日本に帰国してすぐ山響の常任指揮者に就任しました。私はこの年から山響に入団し、学生時代からの念願であったプロオケ奏者としての生活をスタートさせました。渡部氏は比較的モダンなレパートリーを好み、この第44回定期のプロも当時としては新しく感じたよう記憶しています・・・・チェロ協奏曲を作曲した本間氏は当時宮城教育大学の教授で、ソリストの矢島氏は山響の独奏首席チェロ奏者として弦楽器セクションはもちろん、山響全体に強い影響力を持っていました。その厚みのあるチェロの響き素晴らしいテクニック、そして数々の修羅場をくぐり抜けてきた古き良き「楽隊」のオーラは強烈でした。山響のサウンドは今とは全く異なり、どちらかというと粗削りではあるものの、メンバーも若かったことからとにかくエネルギーがあったように思います(今のエネルギーとは異なりますが)ストラビンスキーでは複雑なリズムへの対応が大変でしたが、ようやく念願が叶ってプロオケ奏者になれた喜びと初舞台の興奮で夢中で演奏したことが昨日のように思い出されます。当時のメンバーで現在も残るのは私、トロンボーンI氏、ホルンY氏、打楽器M氏、クラリネットG氏、フルートT氏を始め9名です。この年はサラエボ(2月)ロサンゼルス(8月)オリンピックがあり、東西冷戦(ゴルバチョフはまだ現れません)の末期です。1ドルは230円ほどでした・・。
11月に入って、始めは寒かったものの、ここ数日は10月のようですね。3日の芋煮会の寒さはどこに行ったんでしょう・・・。
昨日の新宿での会議と今日の酒田往復で、2日間で約1000キロ近く走ってしまいました。月山道路も雪は無く、鮮やかだった紅葉の色合いは冬の始まりとともに雪を迎えるために少しずつ変化しているようです。もう少しすると一面に白い風が吹くのでしょうね・・・・。
来週はいよいよ記念すべき200回定期です。明日からは200回定期記念ブログとして、私が入団してから印象に残っている定期の思い出などを記して行きたいと思います。ご期待下さい。
今日は米沢市で市民文化会館の会場40周年の記念公演があり、モーツァルト、フォーレなどの作品と、佐藤 真氏の名作で自身のオーケストレーションによる合唱組曲「蔵王」のオーケストラ版を地域の方々を中心とした合唱団と共に演奏しました。近年は米沢市内に新設された「伝国の杜」コンサートホールでの演奏が多くなり、長年にわたって使ってきた文化会館での演奏は山響にとっても久しぶりです。さすがに40年前の設計で、しかも多目的ホールとしての音響は、最新の施設と比べようもありませんが、ホールの職員、スタッフの方々はきちんとしたお仕事をされていて、ステージでの演奏が少しでも楽になるようにとの心遣いが伝わってきます。本番も合唱団ががんばって良い演奏だったと思います。こういう演奏会がもっと増えても良いですよね。
終演後は上山に移動し、今月29日に予定されている「けやきの森ブリティッシュブラス」のコンサートのリハーサルを行いました。このバンドはいわゆるイギリススタイルの金管バンドで、10年以上に渡って活動をしており、私も創立当初から指揮者として携わっています。メンバーは50代から高校生まで幅広く、山響ホルン奏者の岡本和也さんもソロテナーホーン奏者として参加しています。29日はこのスタイルのオリジナル曲やポップスなど約1時間半のプログラムを演奏します。吹奏楽とは異なる金管の響きをぜひ聴いてみて下さい。詳しくは「けやきの森ブリティッシュブラス」のサイトをご参照下さい。
明日は新宿のMUJ本部でオーケストラ協議会の会議です。明後日は酒田で山響の本番・・もうしばらくは移動が続きます。
遂にやりました!7年ぶりの日本一!
今日は巨人ファンとしては今年最高の日ですね! かつてのV9以来となるリーグ3連覇と21回目の日本一!原監督はWBCの優勝から今日まで大変な重圧があったと思いますが、若手とベテラン、移籍組からなるチームを率いた力量は、歴代の監督と比しても名将と呼ぶにふさわしい仕事ぶりと言えるでしょう。今年のWBC日本代表チームの監督に就任したとき「原はまだ若い」とか言われていましたが、V9時代の名監督である川上哲治氏は、1974年に勇退し長嶋茂雄氏に監督の座を譲った時点で54歳でしたから、51歳の原監督はまさに働き盛りでしょう。チームも数年前はFA選手をかき集めて、つながりの悪いラインナップが続いた時期もありましたが、坂本や亀井などをはじめとする若手と育成選手もいつの間にか成長し、長期的な視野に立ったチーム作りが実現したシーズンだったと思います。NPBはJリーグ人気やTVの多チャンネル化、またMLBの人気などの影響で、視聴率や観客動員数が減少していると言われていますが、北海道に根を下ろし絶大な人気を誇る日本ハムや、私たちのチームである東北楽天、また古くから地域に愛されている阪神や広島など、NPBも地域密着型が成功しているようです。日本では歴史の長いプロスポーツである野球が、これからも発展し続けて多くの人々をますます楽しませて欲しいと思いますし、私の大好きな巨人がさらなる黄金時代を築いてくれると感じた一日でした。チームの皆さん、全国のファンの皆さん、おめでとうございました!
今日は仕事が終わった後、冬に備えてタイヤ交換を済ませました。例年よりは少し早い時期の交換ですが、タイミングを誤ると困りますよね(+_+)
この後も庄内や置賜地方、また東京から深夜に戻る事などが続くので、安全を確保しておくことは大切です。
さて、今日は日本でもアメリカでも野球のボルテージが大変高かった一日でした。ニューヨークではヤンキースが9年ぶりのワールドチャンピオンに輝き、松井選手は6打点をたたき出す大活躍でシリーズMVPを獲得、東京では日本シリーズ第5戦で巨人が劇的なサヨナラ勝ちで7年ぶりの日本一へ王手をかけました。私は子供の頃から野球が大好きで、小学生の頃は今の「スポ小」のようなクラブに入っていて、キャッチャーで4番または5番を打っていました。
当時は高度成長のまっただ中で、巨人は王、長嶋の全盛時代であり、1965年から1973年まで連続して日本一であり続けた今では考えられない時代でした。
私は幼稚園の頃ピアノを習い始めましたが、当時は音楽家を志していたわけではなく、明けても暮れてもボールを追いかける典型的な野球小僧でした。
今ではボールを持つ事はありませんが、時々バッティングセンターでストレス解消しています(^_^;)・・・・
野球選手としての現役生活は、オーケストラ奏者と比べてはるかに短く、40歳を超えてプレイする事ができる選手はごく稀です。彼らの一瞬に掛ける集中力の凄さは、一日一日を全力で駆け抜け、少しでも多くの時を輝かしく過したいとの強い思いがあるからなのでしょうか・・・松井選手の大舞台でも終始クールな雰囲気と、亀井、阿部両選手の強靭な集中力は、素晴らしかったですね! そしてスタジアム全体でゲームを楽しむ雰囲気がまた良かったです。
きっと残り2試合も最高のパフォーマンスを見せてくれる事でしょう。でも私は巨人ファンです。土曜日で決めて欲しいです!
Hiroshi Sato Offizielle Website